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法力使い
読み方: ほうりょくつかい
初出: 473p
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魔功学仕と性質が似るが、
法力使いは純粋に
「性質を観察する者」である。
魔功学仕は魔導の性質を観察して
それらを魔功学として理論建てたり
導具を作る為の知識として応用し、
もっぱら幸福の向上へと結びつけて
魔力を巧みに学び仕う目的がある。
「魔導の性質」への学びが
専門分野とばかりに
それだけ考える側面が強く、
最終的には何かへ役立てる為に
一連の修練や行為がなされるので、
観察の対象にも観察の傾向にも
偏りが生じてしまうし、
「どこまで学ぶか」という事も
無制限というわけにいかない。
法力使いは純粋に
「あらゆる性質」を観察し、
範囲は魔導のみに限らず
物体の性質、心の性質、
そしてより高度な
「法則の性質」の観察へ
関心が移る傾向が高く、
優れた者はさらに
『「法則の性質」の性質』さえ
観察するようになる。
なので極論すれば向人で
あるかないかに関わらず、
一般人でも法力使いになれる。
(簡単な例で言えば
パスワードを推測して
ここへアクセスしたなら、
他のページのURLから
「法則の性質」を観察し
これに至ったので
法力を使ったという事!)
魔功学仕と違って学ぶ知識の対象、
観察や修練に対するアプローチには
一切の制限とリミットがない。
また自身の習得した魔導や技能を
何かに役立てて活かすという目的や
新しく発見した魔導の法則を
理論としてまとめたり、
誰かに教えるという事も
したりしなかったり自由なので
雑事が少なく、その分をまた
あらゆる知識や魔導の習得、
法力の向上へと当てる。
純度が高くより精密な観察には
それ相応の時間や修練、
幅広い知識も必要となるので、
もはや「どこまで学ぶか」という事も
一切考えておらず無制限であり、
余計な考えを持たない分
思索と思考の全てさえ
法力へと捧げられる。
好き嫌いの感情による摩擦や
重複した無駄な想念を伴った
粗雑で回りくどい思考ではなく、
余計な感情や概念のない
純度の高い明晰な思考。
歪みや偏見から離れた鋭い洞察力と
観測値の乱れぬ公平な観察力なくして
魔導の解明や普遍的法則の発見、
真理の探求はできないので、
必然的に法力使いは
観察者である自分自身をも
よく観察して探究する。
従って心の観察には極めて熟達し、
それらの制御にも巧みで
最小の力で最大の成果を出す
センスに長けた者が多い。
法力使いがヘーワ協会から
常にノーマークな理由は
ここから来ており、
彼らは関心の対象が
超越した能力の習得と
それらを駆使した
更なる法力の習得であり、
獲得した能力を何に使うかといえば、
また法力の向上へ向けられる。
魔力が暴走して事故を起こすような
粗雑なレベルの魔導であるならば、
そもそも法力使いにはなれないという
当たり前の話でもあるし、
彼らがリスクファクターとなる要素は
どう見積もっても少ない。
向人は心のエネルギーを
魔導によって物質のエネルギーへ
直変換できる危険な者たちだが、
例えば心にメラメラと
怒りの感情が立ち込めていれば
「憎悪の火」という魔導が発動し、
怒りが僅かであっても
気づかぬうちに体温が上がるなど、
外界への影響が大きいので
これでは温度計すらまともに見れず、
超越した観察能力どころか
冬を夏と間違えるだろう。
魔導師とは魔導を自在に操り
使いこなす向人の事だが、
法力使いは法力を自在に操る者であり、
そこには魔力も魔導も魔功学も
その他あらゆる知識や知恵が含まれる。
なのでめったに馬鹿な事や
愚かな行為もせず、やっても
「あれは何か深い意味があるんだ」
「きっと高度な観察の為の修練だろう」
と思われて結局マークされない。
法力使いと魔功学仕を
兼任する者もいるし、
ここに書かれているような
典型的な法力使いが
全能力を幸福の総量の爆上げへ使う為、
一念発起してバリバリに魔功学へと仕え
へーワ協会に入り浸る者もおり、
およそリスクファクターとは無縁。
それ以外は基本的に
やがて寂去微留してしまう。
極めて稀なケースであるが
微留からひっぱり戻され
天降生になる事もある。
なにはともあれ、
たいへんありがたい
ヘーワな存在。
関連: ハルカ , 魔功学仕
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